追悼の話
わが家は親が率先してファミコンを手に入れてくるガジェッド好きで、一方子供のころの私は「あれがしたい」「これがほしい」という欲求が希薄だったから、ファミコンはあってもソフトは父が適当に見繕ったものや近所からのお下がりが多かった気がする。クリア出来たのはeasyモードにしたけっきょく南極大冒険とグーニーズのみ、スーパーマリオブラザーズは1-4から先に行けたことがない。
そんなゲームが好きなんだか嫌いなんだか分からない私が初めて自分の意志で「ほしい」と手に入れたのが中古やにあったドラゴンクエスト3なわけで、ドラクエには思い入れがあるのである。エニックスが出した最小の情報しか載っていない攻略本片手に冒険をして、エンディングの曲を聴きながら放心して、ドラクエ4の発売を心待ちにして。
私や私のすぐ下のいとこがドラクエを楽しんでいたからか、母方の祖母が今で言うドラゴンクエストファミリーコンサートにも連れてってくれた。NHKホールで、NHK交響楽団が、すぎやまこういち指揮でクリアしたゲームの曲を素晴らしい技量と名器で演奏する。贅沢な時間が終わった後、「ここだけの特別なおまけですよ」とすぎやま先生は発売直前の4から王宮のロンドを演奏してくれた。
ドラゴンクエスト3が出てから四半世紀が過ぎて、あのときドラクエ3をプレイしていた小学生もみんな立派な中年になった、私も大人になったかわからないまま中年になった。相変わらずゲームが好きか嫌いかわからないままPSやPS2でゲームをプレイし(PS2はやはりゲームなど全くやらないガジェッド大好きな父がよくわからないまま予約して突然家にやってきた)、ドラクエ7で石版片手に世界を巡り、8で見事3D酔いし、9はハードがないからパスをして、10はのんびり触る程度で(説明すると長いが序盤の袋クエストで躓いている)、11は二つのルートで世界の行く末を見届けた。最初のエンディングのほうが個人的には好きです。取り返しがつかなくても人は前に進めるし、きっと希望はあると思えて。
だから、12の完成を前にしてすぎやまこういち氏の死去が報じられたとき、まずびっくりして、次にさみしさがじわりと湧いてきて、やがて複雑な気持ちになった。
いまの日本における政治状況を右か左に分けるのはもはや意味がなく、保守か革新かという問いも意味がない。なのでひとつひとつについてどう偏っているかを把握しておくしかないわけだけど、その偏り方でいえばすぎやまこういち氏は間違いなく極端な民族右派であるし同時に排斥主義であるし、LGBTQなどのマイノリティについても差別的だった。それは氏の育成過程から導き出されたもののようだ。このブログではこのような発言が紹介されていた。
「自然と身についたものです。祖父、祖母が知り合ったのはキリスト教会で、その根底には民主主義があったと思います。祖父は日露戦争反対論者で、明治時代に幸徳秋水も参加していた新聞『萬朝報』のメンバーでした。
今の日本では民主主義者が右翼と呼ばれてしまうだけで、自分としては民主主義者として大切なことを発言しているだけです。」
祖父、そして父親の生き方がどのように影響しているかはこのブログからはうっすらとしか見当たらないが、氏にとって”日本人”という幻想を守ることと、明治政府の打ち出した男女の婚姻によるイエ制度の維持が民主主義だったことは想像に難くない。
ドラゴンクエスト11にはシルビアという最高なキャラがいる。クィアで、強い明るさを持ち、ゲイかアセクシャルの可能性があり、イエ制度から自由に羽ばたき勇者とともに戦う。物語にはロールモデルの可視化という役割があって、自分が所属するアイデンティティが格好良く描かれたら人は励まされるし、悪く描かれすぎるとレッテルになる。だからポリティカルコレクトネスという指針が近年注目されるわけだけどこの話は割愛。ドラゴンクエストもまたロールモデルという役割に意識的だし、10も多民族共生の話なのだし、7で語られるのは歴史の役割についてだ。ドラゴンクエストは世界観、システム、ビジュアル、と保守的な王道のようで、ゲームは太い思想に支えられている。
そしてドラゴンクエストをプレイしていたファンには10の多文化共生に勇気づけられる民族マイノリティの方も、シルビアに喝采を上げたLGBTQの人もいるはずだ。国民的ゲームの国民は日本に住んでいるすべての住民、を指すはずのものだから。
今回の訃報のさい、ツイッターでは多くのドラクエファンが素直に嘆き悲しみ、少なくないアカウントが「思想は別として」哀悼の意を表し、いくつかのアカウントは場違いと言われても氏の晩年がレイシズムに彩られたことを指摘していた。
少なくとも、なんの葛藤もなくゲームをプレイし、死の際指摘された思想面について「場違いだ」と目を瞑り、ただ心から悲しみ敬意だけを払える、これがマジョリティの特権であることは間違いない。
同じゲームをプレイしながら「この素晴らしい音楽を作る人は自分を排斥する側でもある」と頭によぎる人や、晩年のレイシズム活動でドラゴンクエストというゲームそのものから遠ざかった人がいることに目が向いたり、思想面で厳しい判断をする人もまた少なからずいることは、おそらくすぎやまこういち先生とドラゴンクエストというゲームにとっても残念なことだけど、切り捨ててもいけない。悼むということは死んだら仏だとすべてなかったことにすることでないはずだ。人を仏にするのではなく、人を人間として扱い記憶することで、その人は文化のなかで生き続ける。
死は終わりではないしなにかの総括にもならないが、総括は生者しかできない。すドラゴンクエストはどういうゲームなのか、すぎやまこういちの楽曲はどういう影響を与えているのか、彼の社会的な振る舞いはなんだったのかを考え続けることが我々ゲームファンの役割だと思います。
— ワニウエイブ (@waniwave) 2021年10月7日
特にネットが主なプラットフォームのオタクになると、好きなものは全肯定以外は全てノイズで敵となりがちだし、私にもそういうものはある。でも私の好きなものにしても死去したとき触れなければいけないことがあるし、恐らく負の面も触れられるし、私はとても不機嫌になる。でも、それは本人が自ら身につけたタトゥみたいなものでどうしても剥がれない。だとしたら、それも含めてその人だったのだと(どれほどかの時間が掛かっても)受け入れ考え続けるしかないのだろうと思う。
私は自身が奇形児として生まれたのだから時代によっては排斥される側であって、またマイノリティの友達がいるのもあり、排斥の思想には与したくないし、そこはどうしても無視できない。
一方で間違いないのはドラゴンクエストはすぎやまこういちの音楽がなければ成立しない物語だった。氏はグループサウンズ時代に、ドラゴンクエストで、競馬のファンファーレで、素晴らしい仕事をしたし、先生がいなくなったドラゴンクエストが全く想像出来ない。
これからドラクエ10やドラクエ12をプレイするたびにこの両面を考えていくのだろうし、ドラゴンクエスト好きとして、先生がいなくなったことはとても寂しいです。