つれづれ帳

もそもそとしたあれこれ

「TOVE/トーベ」が哲学的だった話

女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない

 冒頭、トーベが家から飛び出しアトリエを構えたとき思い浮かんだのは、ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』のこの有名な一文だった。トーベが心から湧き上がるものを作品に昇華する際に必要だったのもまた、この二つのものだった。

 トーベは自由を求める。トーベは芸術家と自分を定義する。トーベは偉大なる父親との関係を「つまらない芸術を作る父」「出来の悪い娘」と語る。トーベには自分一人の部屋が必要だったが、それは彼女が人生を歩むスタートに過ぎない。

 とても小さな、そして深く思索的な映画だった。

 根底にはフェミニズムがあるがそれは主軸ではないかな。当時は犯罪とされた同性愛、そして自身がバイセクシャルと自覚して「モンスター」と自称するヴィヴィカと、アニスに「秘密の部屋を探し当てた」と打ち明け「自由を試したんだね」と返されて嬉しそうにはにかむトーベとでは、もともとの葛藤が違う。フィンランドでの抑圧を自覚し自分を自由にするパリに逃れ「パリを愛している」と心から告げるヴィヴィカと、彼女を愛していることで一度は自由を得るトーベ。トーベを縛る抑圧は同性愛への蔑視ではなく、ヴィヴィカへの愛そのものなのだから。彼女と寝たことで自らの同性愛的な傾向を自覚し、彼女を求めて劇場に行き、そして部屋で彼女を待つときの姿、すり減るろうそく、トーベの後ろ、ガラス越しに映るヴィヴィカのまなざし。他人にまなざされるとき、人は他者に支配される…というのはサルトル『存在と無』の有名なテーゼだが、まさにヴィヴィカへの愛に支配され翻弄されるトーベの姿は他人のまなざしにより定義された人間そのものにも思える。

 この作品においてサルトルはどうも飾りではなく脚本の軸の一つであるように感じられる。ヴィヴィカが演出をしていたのはサルトルの舞台だ。「婚姻は便利よ」と淡々と言い放つヴィヴィカだが一方でサルトルの母国であるフランスはパリに憧れる。パリにおいて、サルトルジェンダー思想の祖であるボーボワールと長く恋人として暮らしていた。

 あるいは自由。哲学者でもあるアトスに「君は自由を試したんだね」と問われたことが嬉しくて仕方が無いトーベ。彼女は家を出て自分一人の部屋を手に入れてから、自分、そして自由についての長い旅に出ることになる。同性愛者としてのありのままの在り方をトーベに教えたのがヴィヴィカなら、自由についての思索の方法を教えたのがアトスということになるだろうか。なんたって彼はスナフキンのモデルだ。だからこの作品における自由は、サルトルの言葉を借りると

人間は自由の刑に処せられている

よりも

君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ

の方がしっくりくる。トーベは選び、傷つき、傷つけ、焼けになり、感情に流され、そして創作する。彼女は自由で「ある」のではなく自由に「なる」。その過程の映画だ。

 

トーベは三つのものにとらわれている。「自由」「芸術」そして「承認欲求」。最初の自由は沢山の分岐を選び体当たりをしながら、他の二つが満たされたとき初めて訪れる青い鳥だ。芸術。彼女は父親のような権威主義の絵を嫌うが画家としてはなかなか評価されない。私的な物語としてムーミンを創作しながら、風刺画家や児童作家の仕事は「職業」であって「活動」ではないと見なしている節がある。「私は画家として失敗したの」と言いながら、世界中の子供に自分の世界をシェアしていく彼女。彼女の才能は画家ではなくその「職業」である児童作家や風刺画家の方だと見抜き賞賛したのはやはりヴィヴィカとアトスだ。しかし愛する人と愛してくれる人の承認だけではトーベの中は満たされない。彼女の承認欲求が満たされるのは、父親の死後に、彼が自分の新聞での連載を良い仕事だと認めて大事に保存していたと知ったときである。

 ヴィヴィカの奔放さと向き合い、父親と向き合ったとき、窓から心地よい風が吹く。最後一心不乱に描いている「あらたなる出発」は顔がない。自分を縛るものと向き合ったとき、彼女は自由になる。

 おそらくサルトルらの理解が深いほど、思索が深まる映画なのだろうな。